あおばなの過去から現在に至るまで

あおばなは江戸時代から、その青い花の色素を利用して、青紙を作り、友禅染下絵を描く絵具として使用されてきました。平賀源内(1720〜1779年)は物類品隲という本に、オオボウシバナ(あおばな)について「近江栗本群山田村産、葉の長さ6、7寸、花弁の大きさ寸に近し。土地の人多植して利す。夏に至って花を採る。家あげて野に出て花をとり、汁をしぼり、紙を染め、これを青花紙と称し、四方に売る」と書き残しています。

万葉のころ

あおばなの花
古くは『万葉集』に詠まれている青花は、なぜ滋賀県草津の地に栽培されたのはなぜでしょうか? 「大化の改新」の天智天皇は都を大津京に置きました。唐、新羅、百済など大陸と朝鮮半島の動乱の時代、多くの戦いや交流が活発に行われ、中国、朝鮮からの渡来人が行き交う大津京に多くの大陸文化が入ってきました。その中に染物の原料としてのツユクサの種がありました。都、大津に近く平野が広がる草津には多くの渡来品種の栽培が行われ、陸路、湖路から都に供給されたのです。

そして草津に根付いたあおばな

あおばなの花
江戸時代前期に友禅染が京都の宮崎友禅斎によってはじまりました。青花は、色が鮮やかで、水に溶けやすく、友禅染の下絵を書くのに都合がいいので友禅染の普及とともに栽培が進みました。 江戸時代初期には、青花がすでに商品として諸国に流通していた記録が残され『東海道名所図会』や『伊勢参宮名所図会』などでたびたび画題にとりあげられています。 苦しい時代に・あおばな伝説天明時代は飢饉や大水害に見舞われ、天明の大飢饉では全国で140万人あまりが餓死したと記録されています。全国的に地域の特産品で経済を立てなおそうと各藩の知恵が競われ、染料として草津あおばなの青花紙は飛躍的に流通し草津の人々の暮らしを支えました。

あおばなの最盛期

明治維新から大正、昭和初期にかけて青花紙製品を検査する組合も設立され、あおばなは隆盛を極めます。大正7年ごろで栽培面積約8ヘクタール、農家約500戸で約5000束を作った、これを蓄えて数年で家を建てる人も出たと記録に残っています。

絶滅の危機

第2次大戦後、組合は途絶えましたが戦後の混乱期の一時期、あおばな栽培が地域の経済を支えました。しかし高度成長を迎え化学染料の登場と着物需要の低迷、農家の兼業化が重なり、あおばな栽培農家は激減していきます。人の手で栽培されて種を守っているあおばなは絶滅の危機を迎えました。
その中であおばなは、わずかに残った栽培農家と愛好者の応援で、昭和56年に草津市の「市花」に指定され何とか命脈を保ってきました。